ちなみにふんだんにネタバレが潜んでいるので未見の方はご注意を。
ちなみに未完成の原稿です。後で何とかします(※3年経ても何もしていませんでした)。
観てきました、
「スカイ・クロラ」。
率直な感想は
「推理モノのお手本のような構成」
「サービス精神が過剰なまでに旺盛=
過剰なまでに大人になった押井守」
「スモーカー応援キャンペーン映画」
「読売新聞販売促進映画」
といったところでしょうか。
作中には物語のテーマというか
話の筋を予感させる仕掛けがふんだんに盛り込まれていて
今までの押井作品とは一線を画した、「わかりやすい」
映画になっています。これまでの押井映画では、映像の中に圧縮された
膨大な情報を、まさに「目を凝らして」デコードすることが必要だった
わけですが(そのためにDVDも売れる)、今回はわりと絵はシンプルで
(といっても相変わらず演出・レイアウトの精緻さは高水準)、
まるで推理小説のように、ストーリーのあちこちに張られた伏線を
回収して、またストーリーのオープニングに戻るという
スタイルを取っています。
「永劫回帰」というテーマについては
手を変え品を変えこれまでの押井作品に頻出してきたものなので
さほど違和感は感じず(またか)、といったところでしょうか。
また「戦争」という営為に対する態度も設定の中に明確に盛り込まれていて、
押井守の戦争観をこれまでよりも更に一歩深く推し進めている作品だと思います。
遠いどこかの地で誰かが戦い、死んでいくという「現実」。
それを傍観する一般市民。戦時を経験しない人間がどこまで戦争という惨禍と向き合えるか。
『パトレイバー2』で示唆されていたテーマでもあります。
また「モンロー主義が透徹した世界の、国家ではなく企業が代理して遂行する見せ物としての戦争」
という、「国家政策」によって戦争が管理・運営されているという設定に
ある種(なつかしの)『バトル・ロワイヤル』的な世界観による
物語の担保を想起させなくもなかったですね。
ただ一つ、大空を舞台に、派手な空戦シーンもふんだんに盛り込まれているにもかかわらず、物語全体を通じて息苦しいほど充満する「閉塞感」(本作のテーマとも連動しますし、その演出は見事としか言いようがないのですが)、これがもし「退屈さ」と結びついてしまった場合は、結構しんどい映画になるかとは思います。やはり今回も、観る人を選ぶ可能性を持つ作品ではあります。
さて、本作では少なくとも『イノセンス』ほどの
酩酊感や不可解さは、ありません。
素直に、丁寧に話の筋を追う、というオーソドックスな映画の見方を
していれば、勘の良い方ならかなり早い段階で物語の「構造」に
気付くことが出来ると思います。
(ここで「話の筋がもう読めたからつまんねー」となる人は
やはりもったいない。もったいないです。)
ただ、これまでの押井作品を見慣れている方は、ある意味
「肩すかし」を喰らったような気になるかもしれないですね。
(かくいう自分も「カット毎」に分節・分析しながら観るという
癖が付いてしまっていたので、そういう意味ではまんまと
押井氏の「仕掛け」にはまってしまいました。)
なのであとからパンフレットを読んで「あーそうかそうか」
とトイレで唸ることひとしお。(パンフは小ネタやガイドラインが満載で
必見です。是非買いましょう。初見で話がよく分からなかった僕みたいな人は特に)
畢竟、研究や分析の対象として観ると、やっぱり
単純につまらなくなります、この映画。というか話が見えなくなります。
これまでは「話のなさが話」的なところがあったのですが(それゆえ
「テクスト解析」的研究や分析の対象となってきました)、
今回は「話がある」ので、物語としてはかなりベタな構造には
なっています(ベタにする以外なかったと思います。
押井氏が「若い人に伝えたいことがある」って公言するくらいですから)。
ですので、こっちも身構えず、素直に観ることをオススメします。
まあ、ところどころ観客を煙に巻くようなガジェットも散見されますが、
ほっておきましょう。気になる人はあれこれ考えるのもオツですね。
そこが押井臭のテイストでもありますし、しっかり残しておいてくれています
(兎離州基地のキルドレ行きつけのキッチンで入り口にいつも腰掛けてるじーさんとか)。
では、表題の「teacherは何を教えてくれるか」について少し。
この作品には絶対に倒すことの出来ない最強の「敵」として、
「ティーチャー」というパイロットが登場します。
戦争に赴くのはキルドレ(15,6歳で成長が止まる「子ども」たち。自然死しない)と決まっているのにそれに参加する彼は「大人」の「男」として、キルドレ達から死神のように恐れられています。さて、この「ティーチャー」にはこれまでに登場した押井作品における「敵」にはなかった明確な相違点があります。
それは「実体を持った、現存在として実在する個人」が「敵」だという点に集約されます。
『パトレイバー2』では誰が敵なのか分からない「状況」が描かれ、
『Ghost in the Shell』や『イノセンス』では
身体をはぎ取られた精神の実存性に対する「不安」が描写されました。
しかし『スカイ・クロラ』の「ティーチャー」ははっきりと
ラウテルン社(主人公の所属企業・ロストック社の対抗企業)のエースパイロットとして表記されます
(ただしどんな風貌の人間かは一切分かりませんが)。その「ティーチャー」は絶対的な存在「者」として、すなわち
「戦争を終わらせない」=「戦争を管理する」ためのスタビライザーとして配置されています。
そのような「絶対者」すなわち「先生」は「子ども」に
何を「teach」してくれるのでしょうか。
この作品、主人公カンナミ・ユーイチ(およびキルドレ達)が「乗り越えるべき父(ティーチャー)」と対峙し、その身のこなし方をフロイト的・エディプス・コンプレックスの精神分析コードに当て嵌めて観る、というのがおそらくおおかたの作品解析のガイドラインになると思われます(この点、パンフレットにおけるティーチャーの乗機・スカイリィの解説や、ユーイチの最後の一言「I kill my farther」などが、こういう見方をある意味「強制」させるバイアスとして機能しているといわざるを得ません。ある種の作為性を感じますね)。
ただ、ここでまんまと「用意された」エディプス的コードに乗っかってこの映画を観てしまうと、途端に陳腐でひどくつまらない作品になってしまいます。
10年前からさんざん『エヴァンゲリオン』やら何やらで使い古されたテーマ解釈でこの作品を一括りに分析し、論じたところで、目新しさも、得るものも特にないと思います(分析し、論じることがひどく無意味である可能性もあります)。ではそういった言説を一切破棄して、永遠の生を生きる(死ねばそのパーソナリティは別のそっくりさんに引き継がれる)という事実をどう捉えればよいのか。
カギは「個体」という概念にあります。
たとえば魚や虫(人間でもかまいませんが)など、群れを成して生きる生物の「生」には、とかく「種」という(あえて書きます)「陰影」がつきまといます。これは生物学的な種でもいいし、人間の場合、社会的コード(たとえば人種)でも同じだといっていい。しかし種の保存を声高に叫ぶ人々の手つきにはどこか怪しげなところがある。なぜか。
「森を見て樹を見ていない」からです。
すなわち、「種」の判別における「一般化」を試みる作為と、自然法則による「見せ掛け」の循環構造に眩惑しているからです(これは分類学や自然保護団体に限ったことではありませんが)。
この近視眼的な物の見方はおおかたの場合批判に晒されます。
しかし、根拠やメリットがあるなら、そういう物の見方があってもいい。
そう思いませんか?要はバランスなのですから。
たとえば、(マクロ)経済学の世界では、今では多くの福祉国家で当たり前のように流布している「有効需要」の概念を創出したケインズ主義的な市場分析は、概ね「短期的」な市場原理の動向に焦点を当てており、翻って「長期的」な市場分析を重要視する古典派・新古典派主義者たちは、「神の見えざる手」≒すなわち「供給それ自体が需要を作り出す」(セイの法則)によって需給のバランスが競争市場において調和するので、国家による市場への介入は最小限に留めるべきだ、と主張します。世界恐慌による莫大な失業者の発生と世界経済の破綻を目の当たりにしたケインズは、彼らを「台風が過ぎ去るのをただじっと待っている予定調和的な日和見主義にすぎない」と痛烈に批判しています(もちろん、古典派の思想が現実に葬り去られたわけではありませんし、未だ尚、その財政・金融政策としての有効性が失われているわけでもありません。レーガノミクスやイギリスのサッチャー政権の経済性政策に多大な影響を与えたのは、マネタリズムの旗手であるフリードマンの理路ですし、新古典派思想に含まれる合理的期待形成学派の理論は、今後刷新されることを期待したうえで、大きな有効性を持つものだと個人的には思ってもいます。なんかえらそーにすみません。ついでに言うなら、古典派の思想とケインジアンの思想の統合を図る、ポール・サミュエルソンを筆頭とする「新古典派総合」学派は、その実「総合」には成功していません。あくまで古典派主義とケインズ主義を場合わけして「並存」させているといったほうが正確かと思われます。そういった単純な意味で彼らには「バランス感覚」があると言えなくもない)。
閑話休題。
そこで「森」=キルドレという「種」、ではなく、「樹」=「個体」としての、正に個々の名を与えられたキルドレ一人々々(まあこの場合、主人公カンナミ・ユーイチに絞りますが)に焦点を当てて、
「何度戦い、何度愛し合ったんだろう」
「それでももう一度生まれてきたいと思う?」
という(くせー)コピーを今一度吟味していきたいと思うのです。
彼等キルドレがどういう施術を受けて、肉体的な変化を滞らせているかは詳しくはわかりませんが(作中、栗山千明演じる女の子のキルドレ(三ツ矢)との対話の中で、「とある新薬の作用により、成長が止まる人間がいる」ということがわずかに示唆されるだけです)、とりわけ重要なのは、彼らキルドレが「成長できない」のではなく「成長しない」、すなわち、キルドレの社会的役割はショーとしての戦争に参加することですから、永遠に子どものまま、兵士になる道を(ここもあえて書きます)主体的に選択している点にあります(無論、キルドレとして生きることを余儀なくされ、そのことに苦悩する三ツ矢のような「例外(?)」もいますが)。だからこそ、「大人になりたいと思う?」という問いが出てきます。
さて、ではなぜ、死亡したキルドレの後任者たちには「違う名前」が与えられるのでしょうか。ここでは結論を先取りして、これは物語論的な作劇上の要請に過ぎない、と断定しておきます。「代替品(自らでさえも)」を媒介し、ただ循環する生と死の空虚さを表現する意図もあるでしょうし、また、物語上、一見取るに足らないことのようにも見えます。しかし、固有名詞としての「名前」が、0.0000000…1のノイズ(可能性)を秘めていることもまた、否定しきれない。これは本作を鑑賞する上で極めて重要な視点だと(勝手に)考えています。
とりあえずここで剋目すべきことは、前任者のパーソナリティやアビリティを受け継いだ後任キルドレもまた「別の個体」であるという点です。ここでは少し生物学的な議論に片足を突っ込んでみることにします。そこには必ず(どんなに小さくとも)、「差異」が存在しているはずです。人間の遺伝子は、99.9%が同じだといわれています。60ウン億人いる人間の99.9%は同じ設計図に基づいて作られている。単純に考えると「人類みな兄弟」という標語もあながち説得力がないわけではないし、0.1%の(ここも敢えて書きます)「誤差」の範囲で60ウン億という「差異」を持った個体が存在するという事実そのものにもある種驚嘆しますよね。翻って、99.9%同じ存在なら、その代わりを担う人間はいくらでもいる、と言いたくもなるでしょう。
でもここでは単にゲノムの神秘と多様性を礼賛するつもりはありません。
(そもそもこの場における生物学的な議論に実はあまり意味がありません)
なぜか。単に0.1%と表記する限りそれは大した意味を持たないからです。別に100%でない限り、ゲノムの多様性が0.1%でも99%でも同じ事です。とにかく「誤差」というノイズが存在するか否か、1か0かの話だということです。
世の中には自分のそっくりさんが三人いる、とは良く聞く話ですが(根拠は分かりませんが)、仮にキルドレ達が99.9999…9%生物学的には同じ肉体をコピーできる(つまり、実数の連続性上/生物学的には「100%」同一の身体を持った前任者・後任者がいる)としましょう。
この生物学的「数字」が意味を持つようになるのは、そのわずかなの差異の中に60ウン億もの違ったベクトルを内包している、そしてこれからもそのわずかな差異をもつ存在を生み出す人間が、現実にひしめき合っているという事実をどう捉えるか、という社会的議論に到達してからの話になります。
さて、残りの「差異」によって即ち、「誤差」の範囲で例えばナチスによる粛正やアパルトヘイトといった社会的現象が引き起こされることになります(この問題については、フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い皮膚』が示唆に富む卓見を示しています。是非ご一読を)。
そこでこのわずかな「差異」に目を向けることで、この映画の見方もまたわずかながらも、またはがらりと変わってくるのではないか。僕はそう考えています。
「ティーチャーを倒せばなにかが変わるのかな」
と漏らすユーイチの背後には、スイトが愛した前任者・クリタ・ジンロウの面影がフラッシュバックしていることでしょう。この「父殺し」によって変わるモノは何か。はっきりとはしません。しかも仮にティーチャーが撃墜されたとして、国家政策によって代理企業はすぐさま次の「ティーチャー」を送り込んでくることでしょう。ティーチャーは戦争管理に欠かせない存在なのですから(ここでティーチャーに「子どもが絶対に打ち倒すことの出来ない大人社会の象徴」を見て取ることは、いささかまたしても押井氏の用意(?)したエディプス・コードにまんまと嵌るオチになります。天の邪鬼な僕としてはどうしてもそれだけで事を済ませたくない) 。
遠征先のカフェで、部下・ユーイチと酒を酌み交わしつつ、
「終わらせてはいけない戦争」について持論を展開するスイト(顔がハダリそのまんま)。
それに対し、「ティーチャーを撃墜したら、何か変わるのかな」と、ユーイチが一言。
永遠の生を生き、空で散華することでしか死を手に入れられない「キルドレ」たち。
前任者のパーソナリティと戦闘能力を引き継ぎ、即座に当局から派遣されてく「代替品」たち。
永劫回帰するする生と死の狭間で彼らは何を思うのか。
この問は、深く、重い(by 宮崎吾郎@ゲド戦記)。
「ただ、同じ道をくり返す。
でも、今流れている風景や波や風は、決して同じものには触れられない。
そこにこそ、僕らの足跡があるんじゃないのか。
それだけじゃいけないのか。
そうだから、いけないのか。」
ティーチャーが教えてくれたことは、
まさにこの点に尽きるの出はないでしょうか。
「乗り越えられるべき父」を措定し、それに対峙し、無力さも感じつつ
転生と、永遠に成長しない肉体と精神を抱えたキルドレたちには
無力感・倦怠感、先の見えなさに不安を抱え、人を殺したその手で
ハンバーガーを食い、ボーリング場に繰り出したりもします。
この映画の主人公たちには現代の若者の諸相が織り込まれているとは
思いますが、もはや彼らには所謂「乗り越える(べき)父」など存在しては居ません。
もし居たら話はこんなに錯綜しないでしょうしね。
わたしは「生きる」、この営為の困難さ、美しさをひたすらに木訥に
語りきった作品が『スカイ・クロラ』ではないかと思っています。
でも単に見終わってハイ終わり、とやはりタダでは家に帰してくれない押井守、今回もやってくれてます。
残滓のように沈み込むこのモヤモヤ感、僕はこれを彼からの「お土産」だと思っています
(現にこうやって作品について考え、文章を書けていることだし。ごっつあんです)。
というわけでいつも通りモヤモヤ感にお金を払ったのだと納得することにします。しています。
皆さんにも是非映画館で堪能してもらいたいですね。6.1ch サラウンドは一聴の価値ありです。
ちなみにポニョは未見です。パンフだけ読みました。
「不安と神経症の時代に宮崎駿が贈る最高のストーリー」
みたいなことが書いていて速攻で萎えました。すんません。
追記:ポニョ見ました。
「老いて、病んで、それでも生きる」ということを
真っ向から否定した作品だと思いました。